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井伊直虎(いい なおとら)。井伊家を救った女地頭。その二

「女地頭・次郎法師」こと井伊直虎の実際の政治手腕はどうだったかというと、これがなかなか有能だったようです。
土地の争い解決や開発などの問題に力を注いだようですが、最もよく知られているのは徳政令の一件でしょうか。

不作等で借金が重なり、一揆も辞さぬほどの不満が農民などの間に高まっていたのを受け、1566年、今川家は直虎に徳政令を出すよう指示します。
徳政令とは、それまでの借金を帳消しにしてしまうことです。徳政令が施行されれば、金を借りていた側は助かりますが、領内の経済を支える商人などに大きな影響を与えてしまいます。
直虎は、徳政令を即刻実施するようにという今川家の要求にも屈せず、2年間も引き延ばします。
その間、経済混乱を最小限に抑える手はずを整えたうえで、1568年に徳政令を発動しました。

さて、徳政令を施行した直後、奸臣・小野政次の裏切りによって、直虎は居城を追われてしまいます。ここでまた龍潭寺で尼僧となった直虎は、徳川家康に臣従することを選びました。
この後、井伊谷三人衆や徳川家康の力を借りて、直虎は、実権を取り戻しますが、武田氏の侵攻に再び城を追われ、浜松城に逃れます。そして武田信玄の死後、三たび、城をとりもどすこととなりますから、まさに波乱万丈の人生ですよね。

そして1575年、直虎は、虎松を家康に仕官させることに成功します。
この虎松を仕官させるに際して、直虎は、家康が鷹狩りに出た機会を狙って、虎松に四神期を振らせ、それが家康の目の留まった、という逸話もあります。
虎松(このときは万千代)は、本能寺の変後に起きた、家康最大のピンチ、いわゆる「神君伊賀越え」で働きを見せ、家康から陣羽織を賜ります。そんな虎松の活躍ぶりを見て安心したのか、井伊直虎は、1582年、龍潭寺松岳院にて、その生涯を閉じました。

1582年、元服した虎松(万千代)は、直政と名乗ります。以後、井伊直政として、家康につかえ、「井伊の赤鬼」として勇名を馳せるなど、徳川四天王・徳川十六神将などと称せられるほどになり、徳川時代に幕閣の中枢を担った大藩・彦根の藩祖となりました。

井伊家の系図には、直虎が家督を継いだことは記されていません。井伊家の歴史上は、女領主は無き者とされているわけです。
しかしいつの時代も、波乱万丈の人生を送った女傑は人気者です。現代において直虎は、ゲームの人気キャラクターとなったり、柴咲コウさん主演で大河ドラマの主人公となったりと、歴史上の女性スーパースターとして、各方面から引っ張りだこのようです。

井伊直虎